愛知県豊田市美術館。ここには、シーレが描いた二人の男性の肖像があります。
一人は、叔父のレオポルト・ツィハチェック。1907年、父を亡くしたシーレの後見人でした。もう一人は、カール・グリュンヴァルト。1917年、シーレの軍の上官だった人です。
十年を隔てた二枚のうち今回の中心は後者です。
描かれているのは画家でも批評家でもありません。繊維業を営む美術愛好家であり、第一次大戦中のシーレ兵役時には上官、後にはパトロン(後援者)にもなった人物です。
アートで食べていけるかどうかは、才能ではなく構造の問題です。
シーレの場合、その構造はこの一枚の来歴に畳まれています。彼が28年の生涯で組んだのは、作品を運ぶための「人の経路」でした。
今回はその経路が公開の評価とどう噛み合っていたかを見ていきます。
裏口ではなく表の入口から
1906年、シーレは16歳でウィーン美術アカデミーに入学します。14歳で父を亡くし、叔父を後見人として進んだ道でした。保守的な指導と折り合えず、1909年に退学。同じ年、仲間と「新芸術家集団」を結成します。
ここで、見落とされがちな点があります。シーレを最初に押し上げたのは公開の展覧会でした。
1909年、クリムトの招きで総合芸術展「クンストシャウ」に出品。1912年にはケルンの国際展に参加し、同じ年、美術館創設者カール・エルンスト・オストハウスが《小さな町I》を購入しています。美術館がシーレの作品を買った最初の例です。
クリムトが開いたのは裏口ではありませんでした。表の展示室への入口です。
ただ、その入口に名前が届いたのは表の側に彼を知る人がいたからでした。公開の評価と非公開の経路は別々の道ではありません。同じ一本の道の、見える区間と見えない区間です。
シーレが持っていた4本の経路
回路とは作品が収益と評価に届くまでの経路のことです。シーレの経路は性格の違う4本に分けられます。
一本目はクリムト。
1907年、17歳のシーレは自らクリムトを訪ねます。クリムトは素描を買い、ときに自作と交換し、モデルを手配し、ウィーン工房と自分のコレクターへ彼をつなぎました。
二本目は批評家アルトゥール・レスラー。
コレクターのカール・ライニングハウスやオスカー・ライヒェルを紹介した人物です。1908年に出会った鉄道監督官ハインリヒ・ベネシュも、この層の支援者に加わります。
三本目は画商。
ミュンヘンのハンス・ゴルツが、ドイツでの展示の窓口になりました。
四本目は軍の上官。
1915年に召集されたシーレは、1916年からミューリングの捕虜収容所で事務に就きます。上官カール・モーザーは、使われていない倉庫をアトリエとして与えました。モーザーは当初、彼を塗装職人だと思っていたと伝えられています。
1917年初頭には、上官グリュンヴァルトが「軍の記録画家」として彼を要請し、ウィーンへの転任が実現します。グリュンヴァルトは、その後も作品を買い続けました。
4本は同時に同じ太さで流れていたわけではありません。1912年、シーレはノイレングバッハで逮捕され、24日間拘留されます。このときベネシュは面会に行き、ライヒェルはレスラーへ状況を知らせる手紙を書いています。経路は切れてはいませんでした。ただ本人は後に、最後まで支え続けたのは恋人ヴァリだけだったと書き残しています。細く残っていた。そう書くのが正確だと思います。
1918年3月、第49回ウィーン分離派展。シーレはメインホールに約50点を並べ、油彩を売り、肖像画の注文を受けます。クリムトは、その1か月前に亡くなっていました。同じ年の10月31日、シーレもスペイン風邪で世を去ります。28歳でした。
経路は作品より長生きします。
1950年代からは眼科医ルドルフ・レオポルトが収集を始め、1972年に油彩の作品目録を刊行します。ニューヨークでは、1930年に最初の作品目録を出していた画商オットー・カリルが紹介を続けました。再評価はこの二つの経路の上で進みます。
選ばれない時期に何を数えるか
これは100年前のウィーンだけの話ではありません。構造として取り出すと現代の作家にも使える点が三つあります。
・公募展やSNSをやらなくていい話ではない。
入口として使い、その先で名前を覚えてくれる人を一人ずつ置いていく
・紹介する人、買う人、場所を与える人。
シーレの場合、この三つの役割は別々の人が担っていた。一人にすべてを求めなくていい
・制作が止まる時期にも経路は動く。
兵役中のシーレを支えたのは、それまでに結んだ関係だった
選ばれない時期は経路の本数を数え直す時期なのかもしれません。
元学芸員の風茜の意見
海外の美術館やオークションの作品記録には「来歴」という欄があります。その作品が誰の手から誰の手へ移ってきたかの記録です。作品の履歴書のようなものだと私は思っています。
シーレの《死の街III》の来歴をたどると、最初の持ち主はシーレの重要なパトロンであり生涯の友人、そして美術評論家でもあったアルトゥール・レスラーです。そこから弁護士、キャバレー芸人のフリッツ・グリュンバウムへ渡り、戦後、画商カリルを経てレオポルトのもとに入りました。この記事で書いた非公開ルートが、名前の列としてそのまま残っています。
ただ、この列には空白があります。グリュンバウムはダッハウの強制収容所で亡くなり、その後この絵がどう動いたかは遺族と美術館とで主張が分かれたままです。《ヴァリの肖像》も1998年にニューヨークで貸出中に差し押さえられ、和解は2010年でした。
非公開の経路は価値を運びます。同時に記録の届かない場所も生みます。だから私は、非公開ルートを美談だけで語らないようにしています。
今の作家にできることは驚くほど地味です。誰に渡したか、いつ、どんな経緯だったかを自分の手で書き残しておくこと。経路を来歴に変えておくことです。
豊田市美術館ではグリュンヴァルトが今も両手を組んで座っています。上官から支援者になった人の名前は作品と一緒にここまで運ばれてきました。なんだかジンときませんか?
出典
豊田市美術館「エゴン・シーレ|コレクション一覧」
https://www.museum.toyota.aichi.jp/collection/egon-schieleKlimt Foundation「Egon Schiele」Gustav Klimt Database
https://www.klimt-database.com/en/network-vienna-1900/colleagues/egon-schiele/Sotheby’s「21 Facts About Egon Schiele」
https://www.sothebys.com/en/articles/21-facts-about-egon-schieleLeopold Museum『Changing Times: Egon Schiele’s Last Years』プレス資料(年譜)
https://artguide.artforum.com/uploads/guide.007/id15923/press_release00.pdfWINA「Der Oberleutnant und Mäzen Karl Grünwald」(2014年)
https://www.wina-magazin.at/oberleutnant-und-maezen-karl-gruenwald/Leopold Museum「Rudolf Leopold」
https://www.leopoldmuseum.org/en/museum/museum-history/rudolf-leopoldThe Art Newspaper「Cataloguing Egon Schiele: a digital work in progress」(2021年)
https://www.theartnewspaper.com/news/cataloguing-egon-schiele-a-digital-work-in-progressWikipedia「Dead City III」
https://en.wikipedia.org/wiki/Dead_City_IIIU.S. Attorney’s Office, Southern District of New York「United States Announces $19 Million Settlement in Case of Painting Stolen by Nazi」(2010年7月20日)
https://www.justice.gov/archive/usao/nys/pressreleases/July10/portraitofwallysettlementpr.pdf




