1618年4月28日、ルーベンスは一通の長い手紙を書きました。宛先はイギリスの外交官、サー・ダドリー・カールトン。用件は、自分の絵と、カールトンが所有する古代彫刻コレクションの交換でした。
手紙には自作のリストが並んでいます。作品名、寸法、価格。そしてもう一項目、その絵にどこまで自分の手が入っているかが、併記されている。全て自分の手で描いたもの。その分野に長けた画家が描いたもの。弟子が描き、自分が全体を手直ししたもの。
アートで食べていけるかどうかは、才能ではなく構造の問題です。 ルーベンスの場合、その構造はこの一行に集約されています。彼は、自分の関与度そのものを商品の仕様として書き出した画家でした。
今回は、彼の回路が美術市場の外側にまで伸びていた話を書きます。
宮廷画家になって宮廷から離れた
1609年9月、ルーベンスはアルブレヒト大公とイサベラの宮廷画家に任命されます。当時のフランドルで、画家が受け取れる最上位の評価でした。
条件が異例でした。ブリュッセルの宮廷に住む義務を免除され、アントウェルペンに留まることが認められています。あわせて、税と、聖ルカ組合の規制からも外されました。
意味は距離です。宮廷にいれば注文は途切れません。そのかわり、何をいつ描くかも宮廷が決めます。ギルドに属していれば、弟子の人数も工房の運営方法も組合の規約に縛られる。彼は評価と収入だけを受け取り、規制は受け取らない位置に自分を置きました。
同時代の宮廷画家の多くは、逆を選んでいます。宮廷の近くに住み、宮廷の内側で仕事を完結させた。名前は残りましたが、それは宮廷の記録の中の名前です。
評価される場所と、働く場所。ルーベンスはこの二つを切り離しました。
絵の注文という入国の口実
ここから非公開ルートの話になります。
17世紀の画家には、他の職業にはない特権がありました。敵対している国であっても、絵の仕事という名目でなら、王の居室まで入れる。寝室まで入れたとも言われています。武器を持たず、政治的立場も持たない職能として扱われたからです。
1620年代後半、ルーベンスはこの経路を使って、スペインとイングランドの和平交渉を担います。1629年から翌年にかけてロンドンに滞在し、チャールズ1世と直接やりとりをしました。表向きの用件は絵の仕事です。実際、絵も描いています。
このとき描いてチャールズ1世に贈ったのが《平和と戦争》です。中央で豊穣を分け与える平和の女神を、知恵の女神ミネルウァが軍神マルスから守っている。戦争を退ければ繁栄が来る、という一枚の提案でした。現在はロンドン・ナショナルギャラリーにあります。
肩書きとは、できることの数でもあります。
ルーベンスが持っていた4本の回路
回路とは、作品が収益と評価に到達するまでの経路のことです。ルーベンスの場合、性格の違う4本が同時に動いていました。
一本目は工房です。彼が構図を描き、重要な箇所を仕上げ、細部は弟子が担当する。関与の度合いに応じて価格が変わるため、注文主は自分の予算に合う段階を選べました。供給量が需要に追いつく構造です。
二本目は版画。自作が無断で複製されていることに気づいた彼は、オランダ連邦共和国の議会と、スペイン・イングランド・フランスの統治者から、複製を禁じる特権を取り付けました。そのうえで彫版師を直接監督し、100点近い版を作らせています。原画を買えない層にも「ルーベンス」という名前だけは届く。
三本目は宮廷。定期的な収入と、身分の保証がここから来ます。
四本目が外交です。この回路だけ、報酬が現金ではありません。彼が受け取ったのは爵位、騎士号、そして各国の宮廷への継続的なアクセスでした。
重要なのは四本目の性格です。ほかの三本は美術市場の内側で完結しますが、四本目は市場の外側に接続していた。市場が冷えても、この一本だけは別の理由で動き続けます。
現代の作家への3つの翻訳
これは17世紀だけの話ではありません。
まず、関与度を仕様として書けるか。原画、部分的な手入れ、複製。ここを曖昧にしたまま値付けをすると、価格の根拠を毎回説明することになります。
次に、複製をどう扱うか。ルーベンスが版画に求めたのは収益より流通でした。安く広く届くものと、高く狭く届くものは、役割が違います。
そして三つめ。いま持っている回路が、全部同じ市場に乗っていないかどうか。同じ市場の中で本数だけ増やしても、その市場が冷えたときには全部が同時に止まります。
ルーベンスは1635年、メヘレン近郊にステーン城を買っています。晩年、彼はそこで注文ではない風景画を描きました。売る予定のない絵でした。回路を四本持っていた人が、最後にひとつも回路を通さない絵を残しているのでした。
元学芸員の風茜の意見
学芸員時代、かなり悩んだキャプションは、共同制作や工房形式の作品でした。
作家が一人で作っているなら、その人の名前を書けば済みます。ところが工房で作られたものは、どこまでを誰の責任にするのかが決まらない。工房の名前でまとめてしまっていいのか、それとも代表者の名前にするのか。悩んだ末に決めても、これで合っているという確信は最後まで持てませんでした。
そのうえで、ルーベンスに戻ります。
彼にあれだけの数の作品が残っているのは、工房があったからです。一人で描いていたら、あの量は絶対に不可能です。そして彼には、自分一人で作ったというこだわりが、そもそも薄い。「工房作」と書かれても、ルーベンスは何も気にしませんでした。
これは、すごいことだと思います。
私が悩んでいたのは、いつも表記の正しさの側でした。ルーベンスは、その悩みの外側に最初からいた人です。そんなこだわりがないからこそ、たくさんの作品を残すことができたのです。
出典
一次資料
Ruth Saunders Magurn (ed. & trans.), The Letters of Peter Paul Rubens, Harvard University Press, 1955.(1618年4月28日付ダドリー・カールトン宛書簡を収録)
研究書
中村俊春『ペーテル・パウル・ルーベンス——絵画と政治の間で』三元社、2006年
Kristin Lohse Belkin, Rubens (Art & Ideas), Phaidon Press, 1998.
Jeffrey M. Muller, Rubens: The Artist as Collector, Princeton University Press, 1989.
Corpus Rubenianum Ludwig Burchard, Centrum Rubenianum 編/Brepols 刊(1968年開始・全27部)
展覧会図録
中村俊春ほか『ルーベンス―栄光のアントワープ工房と原点のイタリア』毎日新聞社、2013年
アンナ・ロ・ビアンコ、渡辺晋輔 責任編集『ルーベンス展——バロックの誕生』国立西洋美術館/TBS/朝日新聞社、2018年
所蔵機関・オンライン資料
The National Gallery, London(NG46《Minerva protects Pax from Mars(Peace and War)》作品ページ)
Museo Nacional del Prado(ルーベンス作家解説ページ)
Rubenshuis / Centrum Rubenianum, Antwerp




